南海泡沫事件

1720年、イギリスで発生した世界初の大規模株式バブル

概要

南海泡沫事件(South Sea Bubble)は、1720年にイギリスで発生した株式市場の大暴落を指します。 南海会社(South Sea Company)の株価が急騰した後、突如として暴落したこの事件は、 「バブル(泡)」という言葉の語源となりました。

南海会社は1711年に設立され、スペイン領南米との貿易独占権を得ていました。 1720年、同社は政府債務の肩代わりを提案し、これを機に株価が急騰。 わずか数ヶ月で株価は約10倍に膨れ上がりましたが、同年9月に暴落し、 多くの投資家が破産しました。この事件はイギリス経済に大きな打撃を与え、 投機の危険性を示す歴史的教訓となりました。

南海泡沫事件の基本情報

  • 発生時期:1720年
  • 場所:イギリス
  • 中心となった企業:南海会社(South Sea Company)
  • ピーク時の株価:1720年6月、約1,000ポンド
  • 暴落後の株価:1720年9月、約150ポンド
南海泡沫事件の概要
1720
発生年
8倍
株価上昇率
85%
価値下落率

世界初の大規模株式バブルとされる南海泡沫事件

背景と発生の経緯

スペイン継承戦争と国家債務

南海泡沫事件の背景には、スペイン継承戦争(1701-1714年)によって膨れ上がったイギリスの国家債務がありました。 戦争終結後、イギリス政府は約3,100万ポンドの債務を抱えており、その管理が大きな課題となっていました。

南海会社の設立

1711年、ロバート・ハーレイ財務大臣(後のオックスフォード伯爵)は、国家債務の一部を引き受ける 新会社の設立を提案しました。こうして設立されたのが南海会社(The South Sea Company)です。 会社は政府債務の引き受けと引き換えに、スペイン領南米(当時「南海」と呼ばれた)との 貿易独占権を得ました。

「南海会社は、その名が示す通り、南海(南米)との貿易で莫大な利益を上げるという夢を投資家に売った。 しかし実際には、会社の本当の事業は政府債務の管理だった。」

「南海計画」の発案

1719年、南海会社の取締役ジョン・ブラントは、残りの政府債務も引き受ける「南海計画」を提案しました。 この計画では、債権者は現金の代わりに南海会社の株式を受け取ることになっていました。 会社は株価を高く維持することで、より少ない株式で多くの債務を引き受けられると考えました。

政府債務と南海会社
1711
設立年
950万
債務額(£)
100年
存続期間

政府債務の管理と南米貿易の独占権を持つ会社

南海泡沫事件の時系列

1711年

南海会社の設立。政府債務の一部(約950万ポンド)を引き受ける。

1713年

ユトレヒト条約締結。南海会社にスペイン領アメリカとの限定的な貿易権が与えられる。

1719年12月

南海会社が残りの政府債務も引き受ける「南海計画」を提案。

1720年1月

南海会社の株価:約128ポンド

1720年4月7日

「南海法」が可決。南海会社による政府債務の引き受けが正式に認められる。

バブルのピークと社会の熱狂

株価の急騰

1720年初頭、南海会社の株価は約128ポンドでした。「南海法」が可決された4月には 300ポンドを超え、5月末には550ポンド、6月中旬には890ポンドに達しました。 そして6月24日、株価は驚異的な1,050ポンドのピークを記録しました。 わずか半年で株価は約8倍に膨れ上がったのです。

投機熱の広がり

南海会社の成功に触発され、多くの投機的な会社が設立されました。 これらは「泡沫会社」(bubble companies)と呼ばれ、中には 「目的を後日発表する会社」というあからさまな詐欺まで現れました。 投機熱は社会のあらゆる層に広がり、貴族から使用人まで、 多くの人々が株式投資に熱中しました。

当時の有名な泡沫会社の例

  • 「永久運動機関の発明のための会社」
  • 「鉛を銀に変える会社」
  • 「海水から真水を作る会社」
  • 「目的を後日発表する有益な事業のための会社」

バブル法の制定

乱立する泡沫会社に対処するため、議会は1720年6月に「バブル法」(Bubble Act)を 制定しました。この法律は、王の特許状なしに株式会社を設立することを禁止するもので、 皮肉にも南海会社自身が競合他社を排除するために推進したと言われています。 しかし、この法律が投機熱を冷やし、バブル崩壊の一因となりました。

バブルのピーク
128£
初期株価
1,050£
最高株価
6月
ピーク月

わずか半年で株価が約8倍に急騰

「人々は理性を失い、富を得るための手段として、商業や産業ではなく、株式投機に走った。 ロンドンの街は、株を売買する人々で溢れかえっていた。」 - チャールズ・マッケイ『群集の狂気』

バブル成長期の主要イベント

1720年5月末

南海会社の株価:約550ポンド

1720年6月9日

バブル法(Bubble Act)が可決。無許可の株式会社設立を禁止。

1720年6月24日

南海会社の株価が1,050ポンドの最高値を記録。

崩壊とその影響

バブルの崩壊

1720年7月から、南海会社の株価は下落し始めました。 会社の取締役たちは株価を支えようと試みましたが、 投資家の信頼は急速に失われていきました。 9月までに株価は150ポンド近くまで暴落し、多くの投資家が破産しました。

社会的・政治的影響

南海泡沫事件の崩壊は、イギリス社会に深刻な影響を与えました。 多くの貴族や中産階級が財産を失い、自殺者も出ました。 政治的にも大きな波紋を呼び、関与した政治家の多くが失脚し、 財務大臣のジョン・エイスラビーは収賄の罪でロンドン塔に投獄されました。 南海会社の取締役たちも財産を没収され、一部は投獄されました。

著名な被害者と関係者

  • アイザック・ニュートン:約2万ポンド(現在の価値で数百万ドル相当)を失ったと言われる
  • ロバート・ウォルポール:危機後の収拾に尽力し、後に初代首相となる
  • ジョン・ブラント:南海会社の取締役で「南海計画」の立案者。破産し失脚

経済的影響と回復

バブル崩壊後、イギリスの金融システムは一時的に麻痺しましたが、 ロバート・ウォルポールの指導の下で徐々に回復しました。 ウォルポールは南海会社の資産の一部をイングランド銀行と東インド会社に 移転させる計画を実行し、金融システムの安定化に成功しました。 南海会社自体は解体されず、その後約100年間、政府債務の管理会社として存続しました。

バブル崩壊
7月
崩壊開始
150£
暴落後価格
2万£
ニュートン損失

急速な株価暴落と社会的混乱

「私はかつて世界が狂気に陥るのを計算できると思っていたが、今では計算できないことがわかった。」 - アイザック・ニュートン(南海バブルで大損失を被った後の言葉とされる)

バブル崩壊期の主要イベント

1720年7月

株価の下落が始まる。会社は第3回目の株式募集を行うが失敗。

1720年8月

南海会社の銀行家が支払不能に陥り、パニックが広がる。

1720年9月

株価が150ポンド近くまで暴落。多くの投資家が破産。

1720年12月

議会が南海会社の調査を開始。多くの不正が発覚。

1721年

南海会社の取締役の財産が没収され、一部は投獄される。

歴史から得られる教訓

金融革新の危険性

南海計画は、政府債務を株式に転換するという当時としては革新的な金融手法でした。 しかし、その複雑さゆえに多くの投資家はリスクを正確に評価できませんでした。 新しい金融商品や手法は、しばしばリスクが過小評価され、バブルの温床となります。

情報の非対称性の問題

南海会社の内部者は、会社の実態や将来性について一般投資家よりも はるかに多くの情報を持っていました。この情報格差が、 不公正な取引や市場操作を可能にしました。 透明性の欠如は、健全な市場形成の大きな障害となります。

政府と企業の癒着の危険性

南海会社は政府と密接な関係を持ち、多くの政治家が株式を保有していました。 この癒着関係が、適切な監督や規制を妨げ、バブルの拡大を許しました。 政府と企業の健全な距離感は、市場の公正性を保つ上で重要です。

群集心理の力

南海バブルは、人々の強欲と恐怖が市場をいかに非合理的な方向に 動かすかを示しています。投資家は冷静な判断よりも、 周囲の熱狂に流されがちです。この群集心理を理解し、 それに抗う勇気を持つことが、賢明な投資家の条件です。

「歴史は繰り返す。それは人間の本性が変わらないからだ。」
現代への教訓
300+
経過年数
4つ
主要教訓
多数
類似バブル

歴史から学ぶ金融市場の教訓

南海泡沫事件と現代の類似点

  • 複雑な金融商品の乱用(2008年の証券化商品との類似)
  • 政府と金融機関の癒着関係
  • 投機熱の社会全体への広がり
  • 「今回は違う」という根拠なき楽観論
  • 情報の非対称性を利用した内部者の不正

南海泡沫事件から300年以上が経過した現在も、私たちは同様の金融バブルを 繰り返しています。テクノロジーや金融手法は進化しても、人間の心理は 本質的に変わらないのかもしれません。しかし、歴史から学ぶことで、 少なくとも個人レベルでは賢明な判断を下すことができるでしょう。