1929年大恐慌

世界経済を崩壊させた史上最大の金融危機

概要

1929年の株式市場の大暴落は、史上最も深刻な経済危機「大恐慌」の始まりでした。 1929年10月24日(暗黒の木曜日)と29日(暗黒の火曜日)を中心に、 ニューヨーク証券取引所の株価は急落し、その後の数年間で約90%もの価値を失いました。

この暴落は単なる株式市場の調整ではなく、1930年代を通じて続く世界的な経済危機の 引き金となりました。アメリカでは銀行の倒産、企業の破綻、大量失業が発生し、 その影響は世界中に波及しました。大恐慌は第二次世界大戦の勃発まで続き、 現代の経済政策や金融規制に大きな影響を与えた歴史的事件です。

1929年大恐慌の基本情報

  • 発生時期:1929年10月(株価暴落)〜1930年代後半
  • 場所:アメリカを中心とする世界各国
  • 株価下落率:ダウ平均で約90%(1929年〜1932年)
  • 失業率:アメリカで最大25%(1933年)
  • GDP減少:アメリカのGDPは約30%減少
1929年大恐慌の概要
1929-1939
期間
約90%
株価下落
25%
失業率

1929年10月の株価暴落を発端に、世界経済を崩壊させた史上最大の金融危機

背景

「狂騒の20年代」

1920年代のアメリカは、第一次世界大戦後の好景気に沸いていました。 この時代は「狂騒の20年代」(Roaring Twenties)と呼ばれ、 大量生産技術の発展、自動車や家電製品などの新製品の普及、 そして都市化の進展により、アメリカ経済は急速に成長していました。 実質GDPは1920年から1929年の間に約42%増加し、失業率は低水準を維持していました。

株式市場の急成長

この経済成長を背景に、株式市場は空前の活況を呈していました。 ダウ工業株30種平均は1921年の約60ドルから1929年9月には381ドルへと、 約6倍に上昇しました。特に1927年から1929年にかけての上昇は急激で、 多くの一般市民も株式投資に参加するようになりました。 当時のアメリカ人口の約2.5%(約300万人)が株式市場に投資していたと推定されています。

信用買いの拡大

株価上昇を加速させた要因の一つが、「信用買い」(margin trading)の普及でした。 投資家は株式の購入代金の一部(通常10〜20%)だけを支払い、残りは証券会社から 借りることができました。この仕組みにより、少ない資金で大きな投資が可能となり、 株価上昇時には大きな利益を得ることができました。しかし同時に、株価下落時には 急速に損失が拡大するリスクも内包していました。1929年までに、信用買いの総額は 約60億ドル(当時のGDPの約6%)に達していました。

1920年代の経済指標

  • 実質GDP成長率:1920年代平均で年率約4%
  • 株価上昇率:1921年から1929年で約6倍
  • 信用買い残高:1929年時点で約60億ドル
  • 失業率:1920年代後半で約3〜4%
  • 物価:比較的安定(むしろ若干のデフレ傾向)

狂騒の20年代

GDP成長
42%増
期間
1920-1929
失業率
3-4%

自動車の普及と映画産業の発展に象徴される「狂騒の20年代」の経済成長

金融政策と規制環境

1920年代のアメリカの金融政策は、今日の基準からすると非常に緩やかなものでした。 連邦準備制度(FRB)は1927年に金利を引き下げ、これが株式市場への資金流入を 促進したと考えられています。また、当時は証券取引に関する規制が乏しく、 インサイダー取引や相場操縦などの不正行為も横行していました。 証券取引委員会(SEC)のような監視機関はまだ存在せず、投資家保護の仕組みも 不十分でした。

所得格差の拡大

1920年代の経済成長の恩恵は社会全体に均等に行き渡っていませんでした。 上位1%の富裕層が国民所得の約24%を占める一方、多くの労働者の実質賃金は それほど上昇していませんでした。また、農業部門は1920年代を通じて不況に 苦しんでいました。この所得格差の拡大が、経済の構造的な脆弱性を 生み出していたと考える経済学者もいます。

国際的な金融不均衡

第一次世界大戦後の国際金融システムも不安定でした。 ヨーロッパ諸国は戦争による債務を抱え、アメリカからの借入に依存していました。 また、金本位制への復帰を巡る混乱や、戦争賠償金の問題など、 国際的な金融不均衡が存在していました。これらの要因が、 後の世界的な恐慌の伝播を容易にしたと考えられています。

「株価はこれからも上がり続ける。株価が高すぎるという考えは間違っている」 - アーヴィング・フィッシャー教授(1929年10月17日)

金融環境

信用買い
60億ドル
所得格差
上位1%が24%
規制環境
不十分

拡大する信用取引と所得格差、不十分な金融規制が経済の脆弱性を高めた

1920年代の時系列

1921年

戦後不況から回復し、「狂騒の20年代」が始まる。

1923年

フォードのT型車が年間200万台生産。大量生産時代の象徴に。

1925年

ラジオの普及が加速。全米で約500の放送局が開局。

1927年

FRBが金利を引き下げ、株式市場への資金流入が加速。

1928年

証拠金取引(信用取引)が急増。投機熱が高まる。

バブルのピーク

投機熱の高まり

1928年から1929年にかけて、株式市場への投機熱は最高潮に達しました。 ニューヨーク証券取引所の1日の取引量は500万株を超えることも珍しくなく、 1929年3月12日には過去最高の約800万株を記録しました。 株式投資は社会現象となり、靴磨きの少年から大富豪まで、 あらゆる階層の人々が株式市場に参加していました。

投資信託の急増

この時期、投資信託(investment trust)が急速に普及しました。 これらの信託は株式を購入し、一般投資家に対して信託の株式を販売するという 仕組みでした。多くの投資信託は高いレバレッジをかけており、 株価上昇時には大きなリターンを生み出しましたが、 同時に市場の不安定性を高める要因ともなりました。 1927年から1929年の間に、投資信託の数は約160から約750へと急増しました。

警告の無視

1929年の春から夏にかけて、一部の経済学者や金融専門家は 株式市場の過熱に警鐘を鳴らし始めていました。 連邦準備制度理事会も1929年2月に投機的な貸付を抑制するよう 加盟銀行に警告を発し、8月には割引率を6%に引き上げました。 しかし、これらの警告は市場参加者によって大部分無視され、 株価は上昇を続けました。1929年9月3日、ダウ平均は史上最高値の 381.17ドルを記録しました。

株式市場のピーク時の状況(1929年9月)

  • ダウ平均:381.17ドル(1921年の約6倍)
  • 株価収益率(PER):平均約20倍(現在の基準でも高水準)
  • 信用買い残高:約87億ドル(当時のGDPの約9%)
  • 投資信託数:約750(1927年の約4.7倍)

株式市場の熱狂

ダウ平均
381.17ドル
PER
約20倍
信用買い
87億ドル

急上昇する株価と熱狂する投資家たち、1929年9月にピークを迎えた株式市場

市場心理

ピーク時の市場心理は、今日から見れば非合理的な楽観主義に満ちていました。 「今回は違う」という考え方が広まり、株価は永遠に上昇し続けるという 信念が多くの投資家に共有されていました。著名な経済学者アーヴィング・フィッシャーは 株価暴落の直前に「株価は恒久的な高原に達した」と発言し、 後にこの発言は金融史上最も不運なタイミングの予測として記憶されることになりました。

メディアの役割

新聞や雑誌などのメディアも株式投機を煽る役割を果たしました。 投資成功譚や株式市場の活況を伝える記事が紙面を賑わせ、 一般大衆の投資意欲を刺激しました。また、ラジオの普及により、 株価情報がリアルタイムで広く伝わるようになったことも、 投機熱の高まりに寄与したと考えられています。

「暗黒の火曜日、ウォール街は恐怖に包まれた。株は紙くずになった」 - ニューヨーク・タイムズ(1929年10月30日)

メディアと市場心理

市場心理
楽観主義
投資信託
750社
警告
無視

株式市場の活況を伝えるメディアとラジオ放送が投機熱を煽った

株価バブルのピーク期

1929年1月

ダウ平均が300ポイントを突破。史上最高値を更新。

1929年3月

ハーバート・フーバーが大統領に就任。「繁栄は永遠に続く」と宣言。

1929年8月

FRBが金利を6%に引き上げ。投機抑制を図る。

1929年9月3日

ダウ平均が381.17ポイントの史上最高値を記録。

1929年10月初旬

株価が下落し始める。市場の不安が高まる。

バブルの崩壊

暗黒の木曜日(1929年10月24日)

1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が急落し始めました。 この日は「暗黒の木曜日」(Black Thursday)と呼ばれています。 取引開始直後から株価は下落し、午前中だけで約1,100万株が取引されました。 パニックを抑えるため、ニューヨークの主要銀行の代表者たちが緊急会議を開き、 約2,000万ドルの資金を投入して市場を支える決定をしました。 この介入により、一時的に市場は安定しましたが、投資家の不安は完全には 払拭されませんでした。

暗黒の火曜日(1929年10月29日)

10月29日、さらに大規模な暴落が発生しました。この「暗黒の火曜日」(Black Tuesday)には、 約1,600万株が取引され、ダウ平均は30ポイント以上(約12%)下落しました。 取引所の床は紙くずで埋め尽くされ、株価表示板は取引についていけないほどでした。 多くの投資家が証拠金の追加を求められ(マージン・コール)、それに応じられない場合は 強制的に株式が売却されました。これがさらなる株価下落を招き、 悪循環が生まれました。

継続的な下落

株価の下落は10月の暴落で終わりませんでした。1929年11月13日までに ダウ平均は約48%下落し、その後も下落は続きました。1932年7月8日には ダウ平均は41.22ドルまで下落し、1929年9月のピーク時から約89%の 価値を失いました。株式市場がピーク時の水準を回復するのは、 実に25年後の1954年のことでした。

株価暴落の数字

  • 1929年9月3日:ダウ平均 381.17ドル(史上最高値)
  • 1929年10月24日:「暗黒の木曜日」、約1,100万株が取引
  • 1929年10月29日:「暗黒の火曜日」、ダウ平均 230.07ドル(一日で約12%下落)
  • 1929年11月13日:ダウ平均 198.69ドル(最高値から約48%下落)
  • 1932年7月8日:ダウ平均 41.22ドル(最高値から約89%下落)

株価暴落

暗黒の木曜日
10/24
暗黒の火曜日
10/29
最大下落率
約89%

1929年10月の株価暴落と投資家のパニック、マージンコールによる悪循環

銀行危機

株価暴落に続いて、銀行システムの崩壊が始まりました。 1930年から1933年の間に、アメリカでは約9,000の銀行が倒産し、 預金者は約140億ドルの預金を失いました。当時はまだ預金保険制度がなく、 銀行が破綻すると預金者は全ての資産を失う可能性がありました。 これが「取り付け騒ぎ」を引き起こし、多くの健全な銀行までもが 流動性危機に陥りました。1933年3月には、フランクリン・ルーズベルト大統領が 就任直後に「銀行休業」を宣言し、全ての銀行を一時的に閉鎖する事態にまで発展しました。

実体経済への影響

金融危機は実体経済に深刻な影響を与えました。企業は投資を縮小し、 消費者は支出を削減しました。1929年から1933年の間に、アメリカの実質GDPは 約30%減少し、工業生産は約46%減少しました。失業率は1933年には25%に達し、 約1,300万人が職を失いました。農産物価格は約60%下落し、 多くの農家が破産しました。この深刻な不況は「大恐慌」(Great Depression)と 呼ばれるようになりました。

「我々が恐れるべきは恐怖そのものである」 - フランクリン・D・ルーズベルト大統領(1933年就任演説)

銀行危機と実体経済

銀行倒産
約9,000行
失業率
25%
GDP減少
約30%

銀行の倒産と失業者の増加、実体経済への深刻な影響

世界的な影響

大恐慌の影響は世界中に波及しました。アメリカの輸入減少により、 多くの国の輸出産業が打撃を受けました。また、アメリカからの資本流出が 停止したことで、特にドイツやオーストリアなど、アメリカの資本に 依存していた国々は深刻な金融危機に陥りました。 1931年には、オーストリアの大手銀行クレディット・アンシュタルトの破綻を きっかけに、ヨーロッパ全体に金融危機が広がりました。

政策対応の失敗

当初の政策対応は、危機を悪化させる方向に働きました。 フーバー政権は均衡財政の原則を守り、財政支出の拡大に消極的でした。 連邦準備制度も、金本位制の維持を優先し、積極的な金融緩和を 行いませんでした。さらに、1930年に成立したスムート・ホーリー関税法は 輸入関税を大幅に引き上げ、これに対抗して各国も保護主義政策を 強化したため、世界貿易が急減しました。これらの政策は、 現代の経済学では「大恐慌を悪化させた要因」と評価されています。

大恐慌の世界的影響

  • 世界貿易:1929年から1933年の間に約66%減少
  • ドイツ:失業率が約30%に達し、政治的不安定化がナチスの台頭を助長
  • イギリス:1931年に金本位制から離脱、失業率は約22%に
  • 日本:輸出産業の打撃と社会不安が軍国主義台頭の一因に
  • ラテンアメリカ:一次産品価格の暴落により深刻な経済危機に

世界的影響

世界貿易
66%減
ドイツ失業率
約30%
政策対応
保護主義

世界貿易の崩壊と保護主義の台頭、各国への深刻な影響

大暴落の経過

1929年10月24日

ブラック・サーズデー。1,300万株が売却され、株価が急落。

1929年10月25日

大手銀行が市場安定化のため株式購入を発表。一時的に回復。

1929年10月28日

ブラック・マンデー。ダウ平均が38.33ポイント(13%)下落。

1929年10月29日

ブラック・チューズデー。1,600万株が売却され、ダウ平均が30ポイント(12%)下落。

1929年11月

株価の下落が続き、1929年9月のピークから約50%の価値が消失。

歴史から得られる教訓

金融規制の重要性

1929年の株式市場崩壊は、適切な金融規制の欠如がいかに危険かを示しました。 大恐慌後、アメリカでは1933年のグラス・スティーガル法(商業銀行と投資銀行の分離)、 1934年の証券取引法(証券取引委員会の設立)など、一連の金融規制が導入されました。 これらの規制は、その後約50年間にわたって金融システムの安定に貢献しました。 2008年の金融危機後も、同様の教訓から金融規制が強化されています。

中央銀行の役割

大恐慌時、連邦準備制度は「最後の貸し手」としての役割を十分に果たせませんでした。 この失敗から、中央銀行は金融危機時に積極的に流動性を供給し、 金融システムを安定させる重要性を学びました。2008年の金融危機時には、 FRBをはじめとする世界の中央銀行は、大恐慌の教訓を活かし、 積極的な金融緩和策を実施しました。これが、第二の大恐慌を 回避する一因となったと評価されています。

金融規制と中央銀行

規制導入
1933-34年
銀行分離
グラス法
監視機関
SEC設立

金融規制と中央銀行の役割の重要性、危機後の制度改革

財政政策の役割

大恐慌は、深刻な不況時には政府の積極的な財政政策が必要であることを 示しました。この教訓は、ケインズ経済学の発展につながり、 第二次世界大戦後の経済政策に大きな影響を与えました。 2008年の金融危機後も、多くの国が財政刺激策を実施し、 景気の下支えを図りました。財政政策と金融政策の適切な組み合わせが、 経済危機からの回復には不可欠であるという認識が広まっています。

国際協調の必要性

大恐慌時の保護主義への傾斜は、世界経済の回復を遅らせました。 この教訓から、第二次世界大戦後は、GATT(関税と貿易に関する一般協定)や IMF(国際通貨基金)などの国際機関が設立され、国際経済協力の 枠組みが整備されました。2008年の金融危機時には、G20などの場を通じて 各国が政策協調を図り、保護主義の台頭を抑制する努力がなされました。 グローバル化が進んだ現代では、国際協調の重要性はさらに高まっています。

財政政策と国際協調

  • 経済理論:ケインズ
  • 国際機関:IMF/GATT
  • 政策協調:不可欠

財政政策と国際協調

経済理論
ケインズ
国際機関
IMF/GATT
政策協調
不可欠

財政政策と国際協調の重要性、保護主義の回避

投資家への教訓

個人投資家にとって、1929年の株式市場崩壊から学ぶべき教訓は多くあります。 過度のレバレッジ(借入による投資)の危険性、投機的な市場心理に 流されることの危険性、そして分散投資の重要性などです。 「今回は違う」という考え方は、あらゆる投機バブルに共通する 危険な思考パターンであることを歴史は教えています。 また、株式市場は短期的には非合理的に動くことがあっても、 長期的には企業の実質的な価値に収斂するという教訓も 重要です。

社会的セーフティネットの重要性

大恐慌は、経済危機が社会的・政治的不安定をもたらす危険性を 示しました。この教訓から、多くの国で失業保険、社会保障制度、 預金保険などの社会的セーフティネットが整備されました。 これらの制度は、経済的ショックが社会全体に与える影響を 緩和する役割を果たしています。2008年の金融危機時にも、 これらのセーフティネットが社会の安定維持に貢献しました。

投資家保護とセーフティネット

レバレッジ
危険
分散投資
重要
預金保険
導入

投資家保護と社会的セーフティネットの整備、危機の再発防止

大恐慌の進行

1930年

工業生産が26%減少。失業率が8.7%に上昇。

1931年

銀行の倒産が相次ぐ。欧州でも金融危機が拡大。

1932年

失業率が23.6%に達する。GDPが1929年比で45%減少。

1933年

フランクリン・D・ルーズベルト大統領就任。ニューディール政策開始。

1933-1939年

公共事業、社会保障制度、銀行規制など様々な改革が実施される。